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handicraft森の樹の日常をなんとなく。木工のお話も。


by morinoki8
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メメント・モリ

今日は寒い。沖縄も木枯らしピューピュー。
ラジオによれば、寒気団の南下で、日本全国、この冬一番の冷え込みで、
あちこち大雪の予報が・・・。

けれども、さすが沖縄なのは、こんなに寒い日があっても、
ちょっと暖かい日には、12月であろうと1月であろうと2月であろうと、
蚊がブンブンするのである(今日はいません。寒いです)。

わが「森の樹」の工房は、湿地の原っぱにあるので、
一年中蚊がブンブン。

時々は小刀や鑿を持った手で顔をボリボリ掻こうとしている自分に驚くが、
(「あっぶねえ!)」
だいたいは、刃物を作業台にそっと置いてから、
手や足に止る蚊を狙い済まして、叩き潰す。

蚊ちゃんは、我が赤い血を美味そうにすすっている至福のまさにその時、
昇天の瞬間を迎えるわけだが、この時の蚊は、ひょっとすると
至福の時のままに時間が固定されているのではなかろうか、といつも思う。

永遠の至福。

村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」では、
死(あるいは脳の活動停止)にいたる時間が、微分化され、
目前に迫る死の瞬間(これも実は定義不可能みたいだが)までの永遠の時間を
生きる、という設定になっている。

有限の距離も有限の時間も、無限に分割可能なので、
こういう設定は、哲学から論理学、はてはマンガまで、あちこちで見かけるが、
(アキレスは亀に追いつけない・・・)
実際はどうなのだろう?

悲惨な仮定としては、自己の意識までがこの微分化された時間を生きた場合、
永遠にやって来ない、
しかし目前に迫っている死の瞬間に向けて時間が固定されてしまう
(もちろん物理的時間は変わらないので、
死を避けるための対処は一切不可能である)、みたいな話もある。

「自分の死は、自己に属さない」というのは養老孟司氏の定義であり、
それはとっても納得、である。
なぜなら、それを認識する主体が死んでいるから。

そして「人にとっては、1人称(=自己)の死は認識できず、また、3人称=他者
の死は他人事であり、唯一存在するのは2人称(=身内、友人・知人)の死のみ
である」という説明もとっても説得力がある。2人称の死の悲しみ・つらさのみが、
我々に大きくのしかかる。

話が変わるが、最近とうとう完了してしまった三国志の「蒼天航路」では、
英雄達は死を前にして、それを自然に受け入れつつ、
意識を次第に混濁(当人の意識上ではもちろん混濁していない)させていきながら、
彼岸へと次々に旅立っていった。
北方謙三の「三国志」でも、ほぼ同じような描き方だったと思う。

「自分の死は認識できない」とはいうけれど
そういう「死の迎え方」ができるといいなぁ、とは思う。

いやいや、な~んか、一見重たいようなテーマの話を書いてしまったたが、
いつも蚊をつぶしながら気になっていたので、つい、書いただけ。
でも、歳をとったのかなぁ。
昔は考えたこともなかったもんなぁ。こんなこと。

そういえば、このブログ、なかなか木工の話が出てこない。

反省。

では、木工のお話もまた書きますね。
いやはや。

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by morinoki8 | 2005-12-13 21:31 | つれづれ